2023-10-07 北海道帰省3日目 KKRはこだて→函館元町

旅行

2023-10-05から2023-10-10まで北海道の実家に帰省をしてきた。これはその際の旅日記である。

なお、昨年2022年10月に北海道に規制した際の旅日記はこちらから。→2022-10-20 北海道帰省

KKRはこだて

部屋の窓から。今日は天気が良さそうだ。

KKRはこだて[公式]でぐっすり眠って07:20過ぎに目が覚める。おれは日頃の横柄さとは別に不必要なほどの繊細と過剰な神経質さを持ち合わせた割とどうしようもない性格をしているためか、疲れていても慣れない旅先では寝付きが悪く眠りも浅い傾向がある。ただ今回はくたくたに疲れていたので夢も見ずに死んだように朝まで寝ていた。

早寝早起きが生活の一部として定着している父と母はとっくに起きており、父は既に朝風呂まで済ませた後だった。そして飽きた父が点けたテレビから聞こえる朝のニュース番組で目が覚めた次第である。まだ疲労が残っておりもう少し寝ていたい所ではあったが、そろそろ起きないと色々不都合がある。まず朝風呂に入れないのが問題だ。不平を言わず起きる事にした。

朝食

お盆に乗っている料理は固定であり後は自由に選ぶ。

昨夜と同じく一階の食堂に移動して朝食を摂る。完全なビュッフェ形式ではなく、まず各々に一定のお膳が用意された上で、そこに自分の食べたい分だけお米や味噌汁、サラダや納豆等のオプションを追加する形式である。おれもあちこちに泊まった経験があるがこのような貌の朝食は初めてだ。こうする事で食事を用意するための経費を節減できるのであろうと推察する。

妻とハンドメイドイベントで出掛けた際は夜までのカロリーを補給するつもりで朝にしっかり食べておくのだが、本日の予定も昨日と同様にただ観光をして飯を喰らうだけである。おれは車の運転すらしない。腹を減らせられる要因がほぼ無いので、ガツガツと食わずに常識的・一般的・標準的な量で済ませておいた。

朝風呂

風呂場への廊下。爽やかな朝だ。
朝なので誰もいない。

普段ならおれは朝風呂に入るより朝寝をしたい思いが強いのだが、昨日の日記で前述した通り、昨夜は二度風呂に入ったにも関わらずアメニティの髭剃りを浴場へ持って行くのを忘れて髭を剃れずにいたので、食事の後は単身大浴場へと向かった。朝風呂に入ると眠くなってしまうのだが今日は何もしない日なので眠くなっても特に問題は無いだろう。

昨夜は平日だった事もありお客は少なく、おれ以外に朝風呂に入ろうとする人は誰もいなかった。窓を開けると目の前に庭が見える。今朝は昨日吹き荒れていた風雨が嘘だったかのようにひっそりと静まり返った爽やかな朝だった。源泉かけ流しの温泉なので朝の風呂は熱い。水を入れて少し温くした後、ゆっくり風呂に浸かって体温を上げて丁寧に髭を剃った。それだけで使い捨て剃刀を捨てるのが勿体無かったのでついでに中途半端にすね毛も剃った。

モーニングうさちゃん

風呂場の近くにあるキッズスペース。朝日を浴びて昨夜の不気味さは消え去っている。さらばうさちゃん。

出発準備

珈琲は食堂で貰ったもの。
部屋が広くて本当に良かった。

両親はもう出発する気満々だったが、iPhoneの充電がまだ不十分だったので充電しながら珈琲を飲んで身支度をした。身支度と言っても風呂で髭を剃って顔も洗ったので、後は歯を磨いて着替えるだけである。

チェックアウト

入口に灰皿が備えられている。
写真が悪いが丁寧に手入れされている。

チェックアウトは10:00までだったが09:00前に宿を出る。昨夜到着した際には既に日が落ちていたので暗くて分からなかったが、庭園はよく手入れされていた。先程入った朝風呂で風呂場の窓から見えたものだ。入口横の灰皿で煙草を吸う間に何枚か写真を撮った。総じて大変良い宿だったと思う。

啄木小公園

眠れる君に捧ぐべき
矢車草の花もなく
ひとり佇む五月寒
立待岬の波静か
おもひでの砂ただひかる
捧 啄木  西条八十

本日はまず車で行ける所まで函館山に登ろうというプランだったので、KKRはこだてを後にして国道278号漁火通りに出て海沿いを走る。昨日行った立待岬から分かるように函館は石川啄木の縁の地である。という訳で道路沿いにある啄木小公園の前で親父が車を停車してくれたので写真を撮った。

風は止んでおり海は静かで遠くまでよく見えた。海沿いをジョギングしている人が何人かいたが走りたくなる気持ちが分かる爽やかな朝だった。おれは「石川啄木なんてどうせ宮沢賢治や太宰治みたいに親に飯食わせて貰ってる金持ちのボンボンだろ?」と思っていたがそれは完全に濡れ衣だった。何事も思い込みは良くない。

KKRはこだてから啄木小公園までのルート[GoogleMap]

啄木小公園からの景色

秋晴れでとても気持ちの良い朝だ。この時期の北海道はもう冬直前なのだがこんな日に当たって良かった。昨日夕刻に立ち寄った立待岬[Wikipedia]からは雲に隠れぼやけていたが、今朝は海の向こうの青森の大地がはっきりと見える。

函館正ヨハネ教会

チャチャ登り。坂に名前が付けられている。
函館正ヨハネ教会正面。
日本聖公会 函館ヨハネ教会。
屋根に十字架がないのがちょっと意外。

函館八幡宮を正面にして右に曲がる事で函館山へと至る道に入れる事が分かっていたのでまずは函館八幡宮[Wikipedia]へ向かったのだが、昨日の嵐の影響に因る倒木で函館山の道路は通行止めとなっていた。諦めて元町を見て回る事にする。

まずは函館正ヨハネ教会[公式]である。おれは教会に対する造詣が浅く余り思う事が無い。ほーん、と思いながら写真を撮った。知識のバックボーンがあればもう少し感じる所もあるだろう。こういう時に自分の無教養さを悔しく思う。

函館正ヨハネ教会付近の街並み

写真を撮りながらぶらぶらと歩く。昔の建物がそのまま店舗として活用されているようだ。

函館正ヨハネ教会とは

日本聖公会函館聖ヨハネ教会

 この函館聖ヨハネ教会は、現在、世界聖公会のうちの日本聖公会に属する。明治7年(1874年)英国聖公会海外伝道教会の宣教師W.デニングが函館に来て伝道を開始したのだが日本聖公会の北海道伝道の始まりで、同派の道内における宣教活動の根拠地であった。

 明治11年(1878年)、末広町に初めて聖堂を建てたが、翌年の大火で類焼し、その後も火災などのため幾度か移転した。現在の地に再建されたのは大正10年(1921年)の大火後である。

 この間、教育(アイヌ学校を始め靖和女学校などの開設)、医療奉仕活動などを活発に行った。現在の建物は、昭和54年(1979年)に完成したもので、上空から見ると十字の形に見えるが、これは中世期のヨーロッパの教会に見られる建築様式を取り入れ、近代的なデザインとしたのものである。

函館市

説明のプレートがあった。函館聖ヨハネ教会のサイト[公式]で調べてみると聖公会とはイングランド教会を母体とする教会との事である。何度も焼失して再建されているようだが、当時はそんなに頻繁に火災が起きるものだったのだろうか?

ハリストス正教会

函館聖ヨハネ教会の向かいにはハリストス正教会[公式]がある。こんなに近くにあって縄張り争いが起きたりしなかったのだろうかと心配になる。函館聖ヨハネ教会がこの場所に移転したのが1921年との事なので、時期的には被っていると思うのだが、お互いどのように棲み分けされていたのだろう。この近さは戦争だろもう。

函館市元町広末町重要伝統的建造物群保存地区

函館市元町広末町重要伝統的建造物群保存地区

 函館は、安政6年(1859年)に、長崎・横浜とともに、我が国最初の開港場として開かれたまちで、以来、諸外国との貿易や北洋漁業の基地そして北海道の玄関口として反映してきたまちであります。

 当該保存地区は、その中心的な役割を果たしてきたところで、現在でも旧外国公館や各宗教施設、公共施設や煉瓦倉庫群などのほか和風、洋風および函館独特の上下和洋折衷様式の町家が混在し、異国情緒豊かな町並みを形成しております。

 面積は、約14.5ヘクタールで、弥生町、大町、元町および豊川町の各一部の範囲となっており、指定されている伝統的構造物等が歴史的な雰囲気を醸し出して往時の姿を残しております。

 函館市では、こうした町並みを後世に継承するため、「函館市歳景観条例」に基づき「伝統的構造物群保存地区」を定め、北海道で唯一国の選定を受けた「重要伝統的構造物群保存地区」の貴重な歴史的町並みの保護保存に努めております。

平成12年10月

函館市教育委員会

全て漢字で構成された「函館市元町広末町重要伝統的建造物群保存地区」という字面に痺れる。おれは近年のやたらと平仮名を混ぜたがる風潮が嫌いなのでこれは大変好ましい。

ハリストス正教会

ハリストス正教会の正面入口。
正教会を日本に伝道した聖ニコライ。
美しい建物だ。

ハリストス正教会

 安政7年(1860年)、初代ロシア領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりである。正しくは「函館ハリストス正教会復活聖堂」と言う。

 文久元年(1862年)青年だった聖ニコライがロシアから付属聖堂付司祭として来函し、その後日本で最初に正教会(キリスト教の教派の一つ、東方正教会とも言う)を伝えた。彼は明治5年(1872年)に東京に移り、日本全国で正教会の伝道を始めた。

 初代聖堂は明治40年(1907年)に函館大火で焼失したが、大正5年(1916年)に二代目となる現聖堂が再建された。聖堂内部では、高い丸天井や当時ロシアからもたらされたイコン(聖像)やイコノスタス(聖障)が、聖堂外部では真白な漆喰壁や鐘楼と聖堂の緑青をふいた屋根に独特の装飾で据えられた十字架などが特徴である。

 再建当時大鐘(重さ約2トン)は、大正12年(1923年)の関東大震災で大破した東京神田のニコライ堂復の際に移され、かわりに大小6個の鐘が贈られた。これらの鐘がリズムと共にメロディを奏でたことから「ガンガン寺」として市民に親しまれた。当時の鐘は戦時中に供出され、現在の鐘は昭和58年(1983年)6月に三重県桑名市在住の美術鋳造家から献納されたものである。

 昭和58年(1983年)6月、国の重要文化財に指定された。

函館市

 

写真を見ながらプレートの説明文を書き写したのだが知らない言葉が多かった。

  • 来函[Google]で検索するとヒットするがこれは単に函館に来たという意味であろう。
  • 函館大火[Wikipedia]は全然知らなかった。Wikipediaを読むと「函館は平均風速が高く木造密集市街地が形成されていたため大火の危険性は高い」とある。なるほど、先の函館聖ヨハネ教会が何度も火災に遭ったのはこれが理由か。
  • イコンはフレデリック・フォーサイスの小説[Amazon]で読んだので知っている。
  • 「ニコライ堂復」の堂復[Google]は出てこない。ニコライ堂復建(ふっけん)の脱字かな?

ハリストス正教会からの景色

ハリストス正教会は坂の上に位置しているので函館の町並みが見下ろせる。先に進もう。

(続く)

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