2023-10-07 北海道帰省3日目c 北海道立函館美術館→長万部→室蘭

旅行

2023-10-05から2023-10-10まで北海道の実家に帰省をしてきた。これはその際の旅日記である。

なお、昨年2022年10月に北海道に規制した際の旅日記はこちらから。→2022-10-20 北海道帰省

この日記を書いているのは2023-11-26である。短く愛しい快適な秋が終わり、季節は既に過酷な冬に移ろうとしている。今日は朝から雨が降っている事もあり、最高気温は10度に届かずとても寒い。冬に夏休みの日記を書いているのは滑稽だが、これまで後回しにしてきたので仕方がない。纏まった文を書くのは纏まった気力が要るが、忙しいと作文に回せるリソースが不足する。頑張って年内には書き上げてしまおうと思う。

北海道立函館美術館

五稜郭で箱館奉行所[公式]見て回った後、駐車場に戻ると時刻は11:00を回っていた。本日の予定は後は長万部(おしゃまんべ)でかに飯を食べて室蘭に帰るだけである。昨日の昼飯はハーベスター八雲で食べたのでかに飯を食べそびれてしまった。

途中で岩合光昭の日本ねこ歩き[Google]の写真展のポスターを見掛けた。おれは詳しくは知らないが両親が好きな番組らしい。調べてみるとNHKBS放送の岩合光昭の世界ネコ歩き[Google]という番組名だった。そういえば帰省した際に猫が歩いているのを撮った番組を見た気もする。日記で何度か書いていると思うが、実家では長らく猫を飼っており、おれが物心付いた時にはもう家には猫が居た。つまり猫大好き一家という訳だ。

日本ねこ歩き

これは公開されている撮影OKの写真。

という訳で北海道立函館美術館[公式]に来たのである。写真展は撮影禁止だったので写真は残せていないが、プロの写真家が撮った猫の写真は流石に素晴らしいものだった。東大寺の南大門[公式]だと思うが、門の前で猫が一匹で寝転んでいる写真が凄かった。「これだ!」という写真一枚を撮るのにどれだけの労力が必要なのだろうと思う。

彫刻

「衣をまとったバルザック」

これは美術館のロビーに展示されていた彫刻である。2枚目の裸婦はブロンズ像?

1枚目の写真には「衣をまとったバルザック」オーギュスト・ロダンとある。当たり前だが本物ではないと思うので習作だろう。美術面に対するおれの造詣は壊滅的な有様なので下手なコメントはしないでおきたい。
後で調べてみたが、この「衣をまとったバルザック[Google]」は北海道立函館美術館が所持している紛れもない本物らしい。図らずもおれの審美眼の無さが証明されてしまった。

函館観光の終わりに

こうして今回の函館観光は終わった。果たして両親が揃って健在な内に、また家族一緒で函館に来られる機会はあるだろうか。現実的に考えると恐らくその機会はもう与えられないだろうと思う。人間に与えられた寿命は等しく有限であり例外は認められない。その当たり前の事実がおれには時にとても恐ろしく感じられる。

八雲パーキングエリア

PAには必ず喫煙所があるので偉い。
道路が少し濡れている。

帰りは高速を使おうという事になったので函館新道[Wikipedia]で北上する。この辺りはよく知らないので調べてみた。函館新道は高速道路ナンバリング[Wikipedia]による路線番号としてE5が割当てされているが、高速自動車国道[Wikipedia](所謂高速)ではなく高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路[Wikipedia]に分類されるとの事だ。なるほど全然知らなかった。気になってWikipediaからリンクされていた国土交通省北海道開発局のサイト[外部]まで読んでしまった。当たり前だが舗装された道路は自然発生するものではない。完成するまでには沢山の合意と時間と金と人手がかかる。それが高速道路となれば尚更である。函館新道が晴れて道央自動車道[Wikipedia]に接続されるまでにはまだ長い時間がかかるのだろう。

さて無事に道央自動車道に接続し暫く走った後、八雲パーキングエリア[Wikipedia]で一度車を停めて貰った。記憶が確かならば朝にKKRはこだて[公式]を出る際に吸って以来、一本も煙草を吸えていない。函館元町にも五稜郭にも北海道立函館美術館にも灰皿は無かった。後少しで八雲IC[Wikipedia]を出て長万部町に降りる予定だが、目的地のかに飯の店に灰皿が備えられているとは考えにくい。このままだとニコチン欠乏で死んでしまう。

思えばこれまで喫煙所が備えられていないSA/PAに出会した事は無いが、喫煙者を叩く風潮が更に広がればいずれ撤去される日が来るのだろうか。都内では既に全館禁煙のビルも珍しくなく弾圧の日はそう遠くないのかも知れない。その時代にはおれは「飛行機でも煙草が吸えた頃があったんだよ」と子供達に語り継ぐ生き証人になろうと思う。

長万部 かにめし本舗かなや

こちらの建物は駅弁直売所だった。
創業昭和三年とある。
窓枠の一番下にまんべくんが潜んでいる。

予定通り八雲ICで道央自動車道を降りて目的地に到着したのは13:30を回った頃だった。函館を出発して噴火湾[Wikipedia]を大体半分くらい回った所だ。車を降りて「エウレカ!おお、ここが約束の地か!」と写真を撮ったらそちらは駅弁直売所でこれから入る食堂はその隣だった。完全に騙された。前提知識がゼロなので店名で検索してみるとかなり有名な店だった。駅弁からスタートして色々手広く商売しているようだ。→かにめし本舗かなや[公式]

よく見ると入口の窓ガラスの部分にまんべくん[Wikipedia]が隠されている。そういえばTwitterで政治的な発言をしてアカウント閉鎖に追い込まれてたな~と懐かしく思って調べてみたら2011年の事件だった。時が経つのが早くて怖い。

かにめし

毛ガニを煮たやつがびっしり敷き詰められている。

お待ちかねのかにめしである。写真を縮小表示すると旨そうに見えないが拡大すると旨そうなのが分かる。写真が悪い。

然し長万部の名産が毛ガニであるという知識は一体どこで得たものなのだろう。記憶を辿ってみると、どうも子供の頃に北上の従兄弟と一緒に遊んだ桃太郎電鉄[Wikipedia]がその根源であるように思う。あのゲームで大まかな日本の地理を学んだ人は多いのではなかろうか。教科書から学ぶのが望ましいのは無論言うまでもない。

ただ、よく調べてみると、初期の桃太郎電鉄には肝心の長万部駅は存在せず、スーパー桃太郎電鉄[Wikipedia]で初登場したと記されている。後者が発売されたのは1992年であり、1978年生まれのおれは既に14歳前後になっている。そうなると記憶の辻褄が合わないので、ゲームボーイ版と記憶が混合している可能性が高い。まあ良い。今回旨かったのだけは確かな事実だ。

八雲ICからかにめし本舗かなやまでのルート[GoogleMap]

かにめし自販機

かなやには予想通り灰皿は置かれていなかった。今となっては当たり前だ。親父が「なんも、駐車場で吸えばいいべや」と言うのでそうした。幸いにも北海道の田舎では路上喫煙に文句を言う人は余りいない。他人の煙草の煙に目くじらを立てる都会ほど狭くはないのだ。喫煙者も吸殻のポイ捨てを是とせず持ち帰るようにしていれば、或いはここまで喫煙者に対して不寛容ではない違う未来があったかも知れない。だが、個人の善意に依る公共性というものはいずれ破壊される。結局の所、喫煙者は環境に甘え過ぎたのだ。そして今、西側の先進国に於いて喫煙文化はゆっくりと滅び去ろうとしている。百年後には「昔の人間の野蛮な習慣」どころではなく「黒人奴隷のように現代では決して存在してはならないもの」という扱いになっているかも知れない。

どうも煙草の未来に対して悲観的になってしまった。かにめしの評判は高く、こうして自販機が用意されているほか、冷凍のものもよく買われているのを見るというのが母の談であった。見る、ではなく、正確には「友人から聞いた」だったかも知れないが大差はないだろう。確かに北海道物産展に出したら飛ぶように売れそうだ。今度注意して見てみよう。

室蘭市営 望洋台霊園

かにめし本舗かなやでかに飯を食べて満たされた後は再び噴火湾を半周し一気に室蘭まで戻った。札幌周辺の一部地域を除けば北海道の道路は高速道路を使わなくても十分に早く移動できる。今日から三連休のカレンダーなので、昨日とは打って変わって函館へ向かう反対側の車線には車が多かった。これから皆函館観光をして短い秋と連休を楽しむのだろうと思う。

静狩峠の手前の辺りでリアカーを引いて移動している人を見た。リアカーには「北海道に移住を」と書かれた板が置かれていた。ある種の有名な存在なのかと思い帰省が終わってからGoogleで検索してみたが、はっきりした事は何も分からなかった。追い抜いたのは一瞬の事だったので板に書かれていた文言以上の情報がない。何れにせよリアカーを引いて北海道を移動するのは自殺行為に近い。その後は静狩峠のトンネルが続いたのだが一体どうやってトンネルを超えたのだろうと思った。そもそも宿まで辿り着けるのだろうか。この季節の北海道で無謀に野宿をするつもりなのか。疑問は尽きない。

お墓参り

15:30過ぎに望洋台霊園[Google]に着いた。以前にも書いた気がするがおれは墓参りをするのが好きだ。墓参りをする度に定められた義務を果たし、時間の経過に伴って摩耗し薄れた祖先との絆を恢復できる気がするからだ。勿論これは単なるおれの独り善がりな思い込みに過ぎないが、死に纏わる儀式や礼法は全て生者の為のものである。

今回の帰省日記の最初に書いたが、今年の07/31に92歳で父方の祖母が逝去した。通夜と葬儀に参加するためおれは忌引を取り飛行機も予約していたのだが、移動当日の朝になってもまだ熱が引かず、検査キットで新型コロナウイルスの陽性反応が出たため移動は取り止めにした。その後四十九日法要も恙無く終わったが、結局今日まで来られず仕舞いだったのである。なお、奇しくも祖母が亡くなったのは祖父が亡くなったのと同じ日付であり運命的なものを感じた。

記憶が定かではないが、祖母は10年以上前に施設に入っており、徐々に痴呆が入ってここ1年は恍惚の人となっていた。おれが最後に祖母の顔を見たのはいつだったか覚えていない。生きている間に大切に扱わず亡くなった後にこうして墓参りに来るという自分の行動に強烈な自己矛盾を覚えた。

かにめし本舗かなやから望洋台霊園へのルート[GoogleMap]

実家→ビアキャビン

松の木に吊るされた鉄製の猫。

全ての旅程を消化し16:00過ぎに無事に実家に到着したのでまずは庭で一服した。今回の函館観光ではあちこちの喫煙所に行ったがやはり実家が一番寛げる。文字通り実家のような安心感[Google]だ。本日の残りの予定は晩飯にジンギスカンを食べに行き、その後は親父と日本酒を鱈腹飲むだけである。

一日留守にしたので実家の猫は完全に不貞腐れており納戸に隠れていた。保護猫を引き取ったのだが、これまで両親が旅行で泊まりになる際には、近所の人に面倒を見て貰っていたらしい。それが今回は初めて一人、もとい一匹で放置されたため大変な不信感を持ってしまったようだ。猫にも様々な性格がある。

チーズいか

これはKKRはこだてで買ったチーズいか。部屋で飲む際のつまみになるかと思って買ったのだが、結局満腹で食べられなかった。供養のためここに写真を載せておく事にする。

ビアキャビン

市外局番無しの電話番号が懐かしい。
ジンギスカンは薄い肉が好き。

18:30にビアキャビン[食べログ]を予約していたので車で向かった。親父が食べながらビールを飲むため、帰りはおれが自宅まで運転するというフォーメーションになっている。歩けない距離ではないしタクシーで移動しても良いのだが、田舎の東室蘭でタクシーをつかまえるのは中々骨が折れるし夜は寒い。リウマチの母を歩かせるのも気が引ける。そうなると自前の車で行き来した方が安全だ。おれは食う事に集中したいのでビールで腹を膨らませる事はしない。

ジンギスカン

という訳でひたすら食べた。食べ飲み放題もあるが、おれと母は酒を飲まないので食べ放題のみとし、父が飲む分だけ個別に酒を注文する貌になる。最初の皿には山程もやしと玉ねぎが盛られているので、追加注文をする前に先ずはノルマとしてこれを食べ切らなければならない。とは言え肉ばかり食べても胃がもたれるし、伝統的にジンギスカンにはもやしと決まっている。

おれはジンギスカンは薄くて丸い肉が好きだ。昔、おれが実家で暮らしていた頃は生ラムよりもこちらの方が安かったのだが、今では価格が逆転していると聞いて驚いた。時代は変わるものだ。そこまで腹は減っていなかったが肉をお代わりし白米も茶碗二杯分を食べてかなり満ち足りた。腹一杯肉を食えるのは幸せな事だ。肉と共に大量の熱を取り込むので熱くなる。外に喫煙所があるので火照った身体を冷ますのに丁度良い塩梅だ。

今回の帰省時の調整をする際、おれが「ビアキャビンでジンギスカンを食いたい」と言ったのでここの代金はおれが持った。帰省の際は泊めて貰うお礼にこのように何度か飯代を出す事にしている。本当は全部出したい気持ちはあるのだがおれの財布はそこまで厚くはないのでこの程度で勘弁して貰う。

帰りは予定通りおれが運転した。帰り道では先日開店したスターバックス室蘭店[食べログ]が見えた。室蘭にスタバとは隔世の感がある。最盛期に比べ室蘭は悲しくなるほど衰退している街だが繁盛するだろうと思う。娯楽に飽食した文化的な首都圏の人達(皮肉だぞ)には分からないだろうが田舎の民は娯楽に飢えている。

晩酌

膝で猫が丸くなっている。
岩手県釜石市とある。

帰宅して風呂に入って大量に摂取した肉をある程度消化した後、親父が用意してくれていた浜千鳥[公式]を呑み始めた。これは釜石の酒のようだ。親父が虎杖浜で買った魚を干したやつをつまみにする。旨かった。おれは日本酒の旨さについて語れるほど知識を持ち合わせていないが、純米大吟醸が旨いのは分かる。

浜千鳥を呑み尽くした後は白鶴のひやおろしを開けた。帰省した際にこうして日本酒を飲みながら親父と色々な話をする時間が好きだ。こうして父親と酒を飲む機会が残りの人生で何度あるか分からないが、恐らく数えられる程しかないだろうという事は直感的に分かる。

今回は親父から祖父の話を聞いた。おれが高校生の時にB型肝炎で亡くなってしまった祖父の話だ。父が生まれたばかりの頃、祖父は滝上町[Google]にあるベニヤ板の工場で働いていたのだが、火事で工場が焼けてしまい職を失った。念のため断っておくと空襲を受けたという訳ではない。軍港だった室蘭は米軍の艦砲射撃を受けたが、田舎である滝上町にわざわざ爆弾を落とす必要はないだろう。さて幼い父を抱えて失職した祖父はここで一念発起し、滝上町から室蘭まで職を求めて出てきたとの事である。「あのまま滝上で乞食をするくらいなら」と祖父は父によく言っていたようだ。

室蘭に出た祖父は新日鉄の製鉄所[Wikipedia]で臨時の工員としてよく働き、その後に首尾良く正規の工員になる事ができた。今の実家の土地には当時大きな平屋が建っており、隣の親戚と半分ずつ使って住んでいたらしい。家の中は壁で居住空間が区切られていたが、押し入れで繋がっていたとの事である。祖父が新日鉄に正社員として雇用された際、そこの家を貸してくれていた地主に「家を建てるなら土地も売ってやるがどうする?」と言われ、また一念発起して土地を買い取り家を建てた。我が祖先ながら何ともガッツのある男であり好感が持てる。

おれが子供の頃はそうして祖父が建てた家で暮らした。そしておれが小学生の時、父が現在の家を建て直した。古い家の記憶は微かに残っている。引き戸の玄関、木の風呂桶があり、台所は赤いタイル張りで勝手口があった。既に遠い遠い記憶だ。

(続く)

タイトルとURLをコピーしました